自分の人生を生きるための「選択」をしよう

2019年6月開催 心と体の勉強会 音声テキスト No.6

No.5では、参加者の質問にお答えしながら、感情の出しかたや喜び・楽しみを感じるために必要なことについてお伝えしました。
ここでは、自分の人生を生きるための「選択」についてお伝えしていきます。

選択にはメリット・デメリットがつきもの

では、ここから話を広げていきますね。
最初の皆さんのお話の中で、「A or B」「選択」という話をされていましたよね。
例えば言える範囲で、どんな選択に困ったとかありますか?

参加者Bさん「行くか行かないか」

そうですね、行くか行かないか、やるかやらないか、そういうのありますよね。

例えばうちなんかは、お仕事を病気で休んでいる方なんかが結構来ています。
「復職するかしないか」というのがありますね。

まずそういう選択に困ったときには、「行く」「行かない」などの選択肢を出した後に、その選択をしたときの「メリット」と「デメリット」を書き出します。
行ったときのメリット。
でも行ったときにデメリットもあるから迷うわけですよね。
で、行かないときのメリット、行かないときのデメリット。
これらをちゃんと出してあげる。

今日は焼肉にしようか、お魚にしようかということから、転職をしようか、この人と離婚しようかということまで、それぞれメリットとデメリットがあるわけですね。
なので、ちゃんとメリット・デメリットを出します。

メリットもデメリットもきちんと受け取る

出してから立案するときに、例えば「行くことに決めようかな」となったその時に、「行く」となったときのメリットをちゃんと受け取ること。
デメリットをちゃんと請け負うこと。

皆さんどちらかを嫌がったりします。
行くときのメリットを受け取らなかったり、デメリットを受け取らないようにしたり。
もう「行く」と決めたんだから、デメリットを悩まない。
デメリットは「そういうもの」なのだから。

例えば、仕事をすると疲れますよね。
仕事をするメリットは、お金がもらえるとか、経験値だとか。
デメリットとしては疲れる。
「仕事をして疲れた」というのはしょうがないんです。
仕事をして疲れることに対して「どうしようかな」と悩むと、答えが出ませんので。
「疲れたのを回復するために何しよう」というのは良いんです。
仕事というものは疲れるものですから。
もちろん仕事量を減らすとかいろいろありますけど。

欲求を満たすために選択をする

だんだん、社会と言うのは欲求を満たすためのものがたくさん出てきますね。

子供の頃、4チャンネルではAという番組、6チャンネルではBという番組をやっていて。
Aを観ていてCMになったらBを観て、そろそろCMがきれるんじゃないかなと思ったらAに戻すということをやっていたわけですよ。

それからもう、ビデオ録画というものができたので、Aを観ながらBを録画するということができて、後でBを観ればいいという話になっていくわけです。
そういうものは世の中に溢れているので、「欲求は満たせるもの」だと思っている人が世の中には多いんですね。

そうじゃなくて、欲求と言うのは満たせないものがたくさんあるんだと。
「どっちの欲求を満たすか」という選択をする必要があって。
「しょうがないもの」に悩んじゃうときも結構あるんですけど、よくよく考えてみると「それって普通だよね」という。
自然の摂理というのは抗えないので。

もう「行く」となっているときにはデメリットをちゃんと請け負う。
あとはメリットをちゃんと享受する。
たまにいるんです、メリットを受け取らない人が。
「(受け取るのは)悪いわ」というので。
今パッと例が思い浮かばないですけど。

選択と責任

感情も自分の選択

なので皆さん悩むときには、こういうもの(メリット・デメリット)をきっちり出して、「選択と責任」ということ、全てのことは皆さんの「選択」によって行われており、それは皆さんの責任を伴うものなんです。

例えば皆さんここに今日来たというのは、皆さんが選択して来ましたね。
だから、どんな責任があるか分かりませんけども、皆さんには責任があるわけです。

例えば、誰か(Cさん)が自分に対して何かをして、それに自分が腹を立てたとしますね。
「Cさんが私に嫌なことをしたから、私が腹を立てた。私が腹を立てたのはCさんのせいだ。」ということになりますね。
これは、選択していないですね。
Cさんによって私は腹を立てさせられたということになります。
Cさんさえそういうことをしなかったら、私は腹を立てない。
よくあるパターンですよね。

だけども、この「腹を立てる」ということさえ、自分が選択をしているんです。
感情の選択をしている。

最近腹を立てたことがある方はいますか?

参加者Dさん「はい。毎日、母に対して。『選択と責任』というものをしないで生きているので、そこに毎日腹を立てています。」

そういうお母さんに対して腹を立てているんですけど、その「腹を立てる」「怒る」、「怒り」という感情を感じているのは、ご自身が、いろいろある感情の中から「怒り」というのを持ってきているんですよと。
これは嘘か本当か(正しい考え方なのか)は分かりません。
ただ、そういう風に考えると、人生は少し楽になっていきますよと。
確かに、「そんなことされたら誰だって怒るじゃん」ということもありますけども、そこで「怒らない」という選択というのもできますね。

自分の人生を自分で決める

「自分が選択している」というと、「自分が決めている」ということになりますね、当たり前ですけど。
そうすると、「自分の人生が自分で決められる」ということになるんです。

「お母さんが変わらなければ私は幸せになれない。なぜならお母さんがそのままだと私が怒るんだ」…確かに、ひどい方もいます。
うちの母親も相当なものでしたから。
ひどい方も確かにいるんですが、そういうことは置いておいて、「より良く生きるためにどのように考えたらいいか」といったときには、この「自分が決めている」というのが大事で。

「自分が決めている」ということにならないと、自分の人生において自分が主役じゃなくなっちゃう。
お母さんが主役になったり、お父さんが主役になったり、子どもが主役になったり。

そうすると、どういうことが起きるかと言うと…例えばさっき不眠の話で、「ようやく寝ようというときに息子が帰ってきて起きてしまう」というような話がありましたが、「手塩にかけて育ててきた息子なので気になる」という意識があるのは当たり前です。
でも少しずつ、「私は私、あなたはあなた」ということを少しずつしていく…
例えば、バタバタしていても隣で旦那さんはグーグー寝てたりとかするわけですよね。
そうじゃないかもしれませんけど。

だから、「私は私、あなたはあなた、息子は息子よ」と、「自分の生きたいように生きて、私は私の生きたいように生きる、自分で決めるよ」と。
ただ、母子関係というのは強いので、そう簡単にはそれ(私は私…)はなされないので、ちょっと苦労はします。
ただ、そういうことをしていかないと、息子さん娘さんだけじゃなくていろんな人との「境界」というのが曖昧になっていく。

自分と他人の境界

Xさんという円形とYさんという円形が隣り合ってくっついています。
これは仲良しの状態です。
そのふたつの円形が重なり合っていると、その分境界がなくなってしまいます。

お母さんと子どもというのは、最初はほぼ重なり合っている状態ですね。
お子さんが泣けば、それがオムツなのかミルクなのか抱っこなのか分かるぐらい、それが感じられるということがすごく重要なんですね。
それから少しずつ少しずつ離れていって、お母さんと子どもでもあんまり境界が重ならないようにしていかないといけない。

それが「個」として生きていくために重要で、これが重なり続けていくと…たまに重なるんだったら良いんですけど。
恋人同士とかはたまに重なりますね、「○○しようと思っていた」「私もそう思ってた」、みたいに。
たまにはいいんですけども、ずっと重なっていると、「お母さんが怒っているから私は…」となる。
「お母さんが怒っているけど、私は私。」「お父さんが怒っていても、私は私。」なんです。

私は私、あなたはあなた

1950年代か60年代くらいに、パールズという精神科医がいたんですけれども、この人は「ゲシュタルト療法」という心理療法を作り上げた人です。
その人が「ゲシュタルトの祈り」という言葉を残しています。

どういう言葉かと言うと、
「私は私、あなたはあなた。私はあなたのために生まれてきたわけではない。あなたは私のために生まれてきたわけではない。私とあなたが一緒に生きていければそれは素晴らしいことだ。別れたとしても、それは素晴らしいことだ。」
そういう言葉があるわけですね。

なので、重なり合って「無境界」という状態だと、その人の問題を自分が抱え込んでしまったり、自分の問題をその人に任せちゃったりとかしやすくなってしまうんですね。

それが、「自分で決めている」ということになると、自分の人生で自分が主導権を握れるようになる。
重要なのは「自分が主役になる」ということで、「誰かを主役にする」ことではないんですね。
この「境界」というのをちゃんと感じることがすごく重要で。

例えば、ある人に対して「これ以上私のそばに近寄って欲しくないな」ということがありますね。
自分の境界があるわけです。
それ以上近寄ってこられるとなんかイヤなんですね。

そのとき、自分の境界を侵すような人には「これ以上入ってこないで」「それ以上近寄らないで」と言う必要があります。
言えるかどうかは当然、関係性の問題とかもありますけども、自分の境界を侵されたということをちゃんと自分が認識するかどうか、そしてその境界を守ろうとするかどうか。
境界を侵されたら、「逃げる」という手段もありますし、入ってこないように拒否するという手段もあるわけです。

「いくら近づかれても良いわ」という人もいます。
例えばお子さんとかだと、近づいてきても、境界が重なり合っている状態だと、いくら近づいてきてもそんなに気にしないという状態が起きていたりします。
それは、簡単に言うとあまりよろしくはないわけです。
自分の睡眠時間の境界を侵されているわけです。
でもお子さんは、寝ないようにさせるためにやっているわけではないですよね。

ご自身が、勝手に「起きる」という選択をしているわけです。
「だってそんなの起きちゃうわよ」と言うと思います。
だけどもそれは、「息子が帰ってくるから起きちゃう」のではなくて、「息子が心配だから起きちゃう」とかいろいろありますね。

それは、自分が選んでいるんです。
だから少しずつそういうことを修正していくわけです。

関係性や境界は変化するもの

お母さん、女性というのは結構大変で、年齢ごとに役割が変わってくるわけです。
学生くらいまでは男性も女性もあんまり変わりませんね。
社会に出て、社会人になって働き始めてそのうち結婚し始めますよね。
そのときに、男性のほうは「夫」、昔は夫は会社で働くというのが役目で、あんまり年を取っても変わらないですね。

でも女性の方は、結婚したら「妻」として家事を全般的にやったりとか、子どもが生まれれば「母」という状態になりますね。
そこから会社に復帰すれば会社での立場がありますけども、その時期によって役割が変わってくる。
その役割ごとに変化しなくてはいけないですから、結構大変なんですね、女性というのは。
今は男性も家事をやったりすることが増えましたけど、そうは言ってもまだまだ少ないですからね。

だからその都度の変化というものを…息子さんが、子どもが大きくなってきたら、自分の境界から少しずつ外していくということも大事です。
これが、「自分が決めている」ということで、怒ったとしても泣いたとしても、自分がその感情を選んでいる。
「物音で起きちゃった」として、それが「誰でも起きるだろう」という音だったら、当然注意をする必要もありますけども。

自分で自分の人生を変えられる

多くのことは「自分で選んでやっている」という風に、もし考えた場合は、ただただ周りが変わってくれるのを待つだけではなくて、「自分から自分の人生を変えていくということができますよ」という、考え方のひとつです。
事実かどうかは分かりません、本当に選んでいるのかどうか。

で、結局、ここ(頭心体)を遮断するというのも、皆さんが「選んでいる」。
今ここでは、頭と心と体を分断させて、仕事だからしょうがないということで選んでやる。
でもこっちでは、今はつなげる。
だからもうバカ騒ぎする、ちょっと狂ってみるみたいな。
でも社会に出たら、分断しておかないと、泣きたくなったからといって泣くわけにはいかないですから。

それも、自分が選択して、やっていく。
「もうこんなに分断したら私はおかしくなる」というのであれば、その会社を辞めるということだってできるわけです。
それも自分の責任で。

だからすべてが「自分の選択」として考えた場合、その選択に対して、責任は自分で取りましょうということです。
そういうところまで行けると、心身ともに健康な状態を保てるようになっていくんじゃないかなと、僕は思っています。
もちろん、最初からこれをやっていくのは辛いんです。

だから最初のうちは、心のケアとか体のケアというのがとても大事です。
今のは、少しずつ回復してきたらの話ですから。
なんだかこの場がシーンとしていて不安なんですけど…この話をしたのも僕の選択なので(笑)。

参加者Dさん「私まさに母に対して、『自分が主役になって』とか言ってたんですけど、そんな怒りも自分で選択して、自分がやっぱり主役になっていなかったんだなと、今思わされて…(母と)同じことを結局やっているので、ちょっと笑っちゃいました(笑)」

では時間になりましたので、今日はこれで終わりにしたいと思います。
皆さんお疲れ様でした。